浮島の歴史研究コース

沓屋敷と駒止の椋の木
1 富士の巻狩り
 鎌倉幕府を開いた源頼朝はその武威を示すとともに、武士の訓練をする目的で1193年(建久4年)5月8日〜6月7日にかけて駿河国藍沢から富士の西麗において大規模な狩猟を行った。これが歴史上の有名な富士の巻狩りである。


2 富士の巻狩りと浮島地域に残る頼朝伝説
 この富士の巻狩りの帰り道、頼朝が同年5月15日に藍沢の狩猟を終えて富士野(現富士宮市上井出) に移ったときにはおそらく頼朝たちが富士山と愛鷹山の間である十里水道を行進したことであろう現在の十里木付近には、勢子辻とか、黒塚、赤塚、浅黄塚(5色の旗を立てて行進したため)などの地名が残りこの地域にはいろいろな伝説が残っている。
 1193年(建久4年5月28日)の夜、富士野の神野(狩宿)で曽我兄弟が父の仇討ちに工藤祐経を討ったのも、この富士の巻狩りを取り巻く有名な物語である。
 古い時代の東海道は富士川を渡り、愛鷹山麓の根方街道を沼津に進むものと、浮島沼の南側にある海岸線の砂丘の上を通っていくもの(浦方路)の2つがあったらしい。浦方路沿線には、縄文時代の晩期末以来の遺跡や古墳もわずかながら存在しているが、頼朝に関する伝説などはなく、道幅が狭く、また木々の間から人の動きも分かり、軍勢の通る道にはふさわしくなかったらしい。それに対して根方街道は、海岸沿いの道に比べ、津波・高波の心配もなく、南側には浮島沼、そして愛鷹山の南麓の溺れ谷に沿って道が屈折しているため、途中的に攻められる恐れがなく、人家もやや多かったため多く利用されたと考えられる。そのため頼朝に関する伝説が数多く残っている。


3 駒止の椋の木と沓屋敷
 頼朝は、この富士の巻狩りの帰り道に根方街道を通り船津(現富士市船津)の川で狩りで使った矢を洗ったのでその川には「矢川」という名が残っている。それから、石川(現沼津市石川162番地)当時は塩置場新田と呼ばれていた。その頃椋の木があった所へ来ると道ばたでわらで馬の轡(くつわ・・・「口の輪の意」たづなをつけるため、馬の口にかませて取り付ける金具、くつばみ)を作っていた老人がそれを頼朝公に献上した。その時、頼朝公より御褒美として昔の地名で塩置場新田の宅地と開墾地をたくさんいただき、御墨付を賜り代々裕福に暮らしたそうである。
 慶長14年2月代官井出より慶長15年8月公儀折紙賜わされ「沓屋敷」と名称された。(大正3年駿東郡誌に記載されている。)
 今から約850年前、伊藤家先祖代々伝えられてきた沓屋敷も、伊藤家が疲弊したため跡形もなくなってしまった。ただ、子孫が御墨付きは保存してある。沼津市浮島中学校の校門を入って右にある椋の木は源頼朝が富士の裾野の巻狩りの帰りにこの樹に駒(馬)を止めたと伝えられている。沓屋敷がなくなり、売られたその土地に家屋が建設される際、由緒ある椋の木を切り捨てるのに忍びず、昭和42年4月15日浮島PTAの役員の奉仕作業で校門脇に移植された。


4 なぜ頼朝は椋の木に馬を留めたのか?
 駒止の椋の木のことを調べていて私たちが疑問に思ったのは「なぜ頼朝は椋の木に馬を留めたのか?」ということだった。馬のくつわに対する御褒美にしては沓屋敷は多すぎないだろうか。よほど頼朝はくつわをもらったのがうれしかったのだろう。
 調べていくうちに曽我兄弟の仇討ちは、実は富士の巻狩りを利用した頼朝暗殺計画だったのではないか、という説を唱えている人がいることを知った。
 私たち総合学習 源頼朝調査グループは推理した。富士の巻狩りの最中におこった曽我兄弟の仇討ちは実は仇討ちではなく頼朝をねらった暗殺計画だった。頼朝は危険を感じ、急いで逃げてきたのではないか。急いで逃げていたため馬のくつわが壊れ、ちょうど椋の木の下でくつわを作っていた老人がそれを頼朝に献上したのではないか。老人の行為を頼朝の命を救ったのにも等しい行為だったので多くの土地を御褒美としてもらったのだろう。本当のところはわからないが、そう考えると筋がとおるような気がする。
 私たちが日頃から親しんでいる椋の木にそんな真実が隠されていたかと思うとおもしろい。

  



阿野全成と大泉寺
1なぜ頼朝は椋の木に馬を留めたのか?

 今若丸、後の阿野全成は、源頼朝と常磐御前の七男として生まれ、源頼朝を義兄に持ち、義経を実弟に持つ。平治の乱で源義朝は敗北して討ち死にし、母は今若、乙若、牛若をつれて逃げたが、後に捕まって平らの清盛の妾となり助命された。今若は醍醐寺に預けられ全成と改名した。全成はその荒法師ぶりから醍醐悪禅寺師や阿野冠者と呼ばれた。
 治承四(1180)年、頼朝が挙兵するや、ひそかに寺を抜け出し、修行をよそおいながら頼朝の元に参ずると頼朝はその志に涙して感動した。この助勢の功により駿河國阿野荘(現在の東原、今沢から富士市浮島町)を与えられ、井出に館を構えた。
 建仁三(1203)年、全成は謀反の疑いをかけられ鎌倉で捕らえられ、常陸に流され、同年六月二十三日下野國で処刑された。


2 首掛け松の伝説
 阿野全成は鎌倉幕府が成立した後も源頼朝のもとで働いていたが頼朝の死後、北条氏と対立するようになった。建仁三(1203)年、二代将軍源頼家の家来によって謀反の容疑で捕らえられ、常陸國(茨城県)に流され下野國(栃木県)で殺されてしまった。阿野全成の首は、一夜のうちに井出の館に空を飛んで帰り、門前の松の枝にかけられた、という口承(伝説)が残っている。これを首掛け松の伝説という。


3 現在の大泉寺

 墓   大泉寺には阿野全成、全成の子時元の墓があり、およそ八百年の眠りについている。

宗 旨  阿野全成が生きていた頃は真言宗の寺であったが、天正年間(1573〜1592)寺僧永芝が裾野の善明寺六世梁山宗棟を招い                           
      て開山して曹洞宗に転じた。

保育園 大泉寺には現在、保育園がある。本校の生徒の中にもここの卒園生は多い。昭和五十七年以前には障害者をあずかる小学校があった。

所在地 沼津市東井出 七四四

交 通 JR東海道線 沼津駅から富士急バス船津行・東海大学前行東井出下井、徒歩五分


4 研究を終えて 
 阿野全成人と源頼朝が義兄弟であるのに約束が固いのがわかった。逆に源義経とは実の兄弟であるが仲は悪かったと思われる。阿野全成が陰に徹した理由は今も謎である。


浮島のお稲荷さん
 あなたはお稲荷さんについてどれくらいのことを知っていますか?それは本当に正しいことですか?私はお稲荷さんについてよく知っているつもりでしたが・・・調べてみると意外なことがわかってきました。

 Q1 お稲荷さんの出身地は・・・

 お稲荷さんはインド出身。仏教もインドで生まれた。仏教と一緒にインドから中国を経て伝わってきたと考えられる。

Q2 お稲荷さんて、どんな神様?

 はじめ日本に伝わったときは武士の神様だった。その後、商売繁盛、家内安全、福徳海運の神として全国に広がった。ここ浮島では、米の豊作や子どもを守る神として、今でも庭に祀ってあるいえもある。

【浮島のお稲荷さんたち】
<民家のお稲荷さん>
 お稲荷さんの祀ってある小屋の縦は1m50pくらいのものでした。民家ではお稲荷さんは子どもを守る神様として祀ってあるそうです。
 毎年2月の立春の午の日には旗を立てて子どもの成長を祈ります。

<お寺のお稲荷さん>
 浮島の大泉寺のお稲荷さんはお寺から離れた丘の上に祀ってありました。階段もあり、きっと深い意味があるのかと思ったら、大泉寺とは関係ないそうです。

 浮島中学校の隣にある法華寺のお稲荷さんは小さな小屋に九つも祀ってありました。日の当たらない、目立たない所にあったので、お坊さんに理由を聞いたところ、昔は入り口に並べてあったけれど立て直すために移したそうです。法華寺も大泉寺と同じで、直接関係はないとのことです。

【インターネットで調べて】
 試しに「お稲荷さん」のホームページを開いたら、浮島のお稲荷さんと、ある有名な人物とのつながりを示すような資料を発見することができました。

***秀吉とお稲荷さん***
 その人物とはあの有名な豊臣秀吉です。関東・東北の弱い領主は小田原城の北条氏に脅かされていたため、秀吉の東征を待ちわびていました。天正三年、秀吉が自ら出陣し、清州、駿府、沼津へとやってきて、北条氏を破ったのでした。

 お稲荷さんが浮島に伝わったのは15世紀ごろと考えられています。このころ、お稲荷さんは武士の間で信仰されていました。また、秀吉浮島を訪れたかもしれない時期とお稲荷さん浮島に伝わった時期がほぼ同じです。他に浮島にお稲荷さんを伝える人物が見あたらないことから、秀吉がお稲荷さんを伝えたのではないかと私たちは推理しました。確かなことはいえませんが、その確率は高いと思います。