1.下石田のお稲荷さん

 

 朱塗りの美しい建物です。建物は、新しく造られたものですが、神社としては寛保元年10月に建立されており、古い歴史があります。境内の一画には下石田公会堂が設けられています。


2.耕雲寺

 行基上人が彫刻した阿弥陀如来像を、村人たちが祀ったのが寺の始まりと言われています。大永年間(1525年ころ)、再興されて耕雲寺と呼ばれるようになりました。
 境内には六地蔵が祀られ、観音堂には観音像や弘法大師が祀られています。
武田信玄にまつわる笛の話も伝えられています。
 併設の幼稚園には多くの幼児が学び、大岡小の児童にもおなじみです。


3.潮音寺 












観応3年(1352年)に開創され、慶長年間に木瀬川に移転した際、東海山潮音寺と改められました。
  寺の入口左手の一画に、亀鶴姫のお墓があります。亀鶴姫は、今から800年ほど前、黄瀬川の長者・小野善司左衛門の一人娘で、たいそうな美人だったそうです。
 噂を聞いた源頼朝が手元に呼び寄せようとしましたが姫はこれに応じず、黄瀬側上流の鮎壺の滝に身を沈め、18才の生涯を自ら断ったと伝えられています。



4.
日吉廃寺

 白鳳時代に創設され、平安時代の初期に廃絶した、駿河国で最も古い寺院と言われています。昭和34年から市教育委員会が発掘調査を行い、創建時には東西一町(約108メートル)、南北二町にわたる敷地の中に、塔を中心に東西に金堂が配置された飛鳥寺式に似た伽藍配置をとっていたと想定されます。現在は史跡整備工事によって礎石の配置が復元されています。沼津市指定史跡です。

5.日枝神社



 

 昭和2年(1927年)、国の重要文化財に指定され、東京国立博物館に保管されている山王霊験記(絵巻物)に、この神社の由来が記されています。
 これによると、嘉保2年(1095年)に源義綱に殺された延暦寺の僧たちが、当時の関白・藤原師通に訴えました。しかし、訴えは聞き入れられず逆に僧が殺されてしまったため、呪いの祈りをかけたそうです。関白はたたりを受けて死んでしまい、そのたたりをはらうため、近江(今の滋賀県)の日吉神社を分けて大岡の地に祀ったのだということです。
 右の写真は宝物殿の中の様子です。山王霊験記の複製をはじめ、数々の貴重な史料が収められています。


6.
一里塚


 江戸時代に入ると、参勤交代制が作られるとともに、東海道の整備が急速に進んでいきました。これらの街道沿いには、一里ごとに道標(みちしるべ)として道の両側に塚を築き、榎(えのき)の木を植えました。榎の木陰は道行く人々の憩いの場となっていたことでしょう。
 現在、沼津に残る一里塚は、山王前のこの1つのみです。

7.玉砥石(たまといし)



 一里塚の隣に2つの柱状の大きな石があります。玉砥石は、今から1200年から1300年程前の古墳時代に、玉類を磨くために用いられた砥石だと伝えられています。よく見ると、表面にいく筋もの細い溝が通っています。この地は昔、玉造の郷であったとされ、狩野川の対岸には玉造神社があります。
 昭和31年5月24日、静岡県指定史跡となりました。










8.平作地蔵尊

 江戸時代には江戸、大坂を中心に「歌舞伎」や「浄瑠璃」が盛んになり、「伊賀越道中双六」もその一つで、この作品は「忠臣蔵」や「曽我」とともに三大仇討ちとして知られています。
 話は寛永11年(1634年)、荒木又右衛門の助太刀で岡山藩の渡辺数馬が河合又五郎を討った仇討ちを脚色したもので、「沼津の段」は仇討ちの本人である渡辺数馬を夫に持つお米の父、平作が敵の行く先を聞こうとする場面です。我が子を思う心の優しさ、美しさをほめたたえた物語が人々の心を打ったということです。
 お米の働いていた茶店があったと言われる所に地蔵が建てられました。


9.沼津藩領東境傍示
 下石田と木瀬川の境辺りの旧東海道に面した駐車場の中に、約2メートルの石柱が立っています。「従是西沼津領」(これより西、沼津領)と刻まれています。安永7年(1778年)に水野忠友が韮山の江川太郎左衛門から領地をもらった際に建てられたものです。江川太郎左衛門への遠慮から韮山方向には文字を刻まなかったことから、石柱4面のうち3面にしか文字は無いということです。なお、現地点への移築の際、この方向は変わってしまったようです。


10.対面石 

 現在、清水町八幡の八幡神社内に祀られている対面石は、治承4年(1180年)10月、平家の軍勢が富士川まで寄せたときに出陣した頼朝が、奥州からかけつけた弟・義経と感激の対面をし、兄弟が対面の際腰かけたとの伝説が残る石です。また、この時兄弟が植えたとされる柿の木もあります。

11.沼津大岡郵便局        12.片倉工業株式会社

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