学校の沿革

(1)学校をとりまく地域の概要
  金岡地区は、愛鷹山が南に緩やかに傾斜している丘陵地と、駿河湾との間の平野部よりなり、校区の中央を根方街道が東西に走り、国道1号線がそれと平行している。また、東名高速道路の出入り口であるため、車両の通行がきわめて激しい地区となっている。
 昔から農業の発達した地区で、丘陵地には長塚古墳のほか、いくつかの遺跡が残存し、生活文化の中心であったことが推測される。明治にいたって、旧徳川幕府の熱望により教育熱が高まり、明治3年学制発布を待たずに、沢田学校所として本校の前身が開校された。明治5年の学制令とともに、江原素六先生がこの学校を引き継ぎ、金岡地域は名実ともに教育地域としての誇りを持つようになった。
 児童の家庭は、旧家も多く生活状態も豊かであり、教育に対する関心も高く学校を大切にする気風が強い。昭和29年頃より旧校舎が手狭になり、現在地に移転した。校地の造成と校舎建築は、地域住民の総力によって造成建築されたと伝えられている。当時の児童数は約1000名。すでに大規模校としての兆しが現れていた。
 広大な校区内には宅地造成の余地が十分にあり、昭和41年頃より児童数が急上昇し、46年度には1800名を越えなお増加の傾向にあったため、門池小学校を新設し児童の一部を分離した。
 しかし、児童数の増加は激しく、54年度には再び沢田小学校を新設分離した。その後も校区内住民の増加は激しく、市内有数の大規模校となり現在に至っている。
 平成7年11月24日新校舎落成記念式典を盛大に挙行し、児童はオープンスペースをもった教室や多目的ホール施設を生かした教育に意欲的に取り組んできた。 平成7年度から9年度にかけては、「学習指導法」の市指定研究に取り組み、授業改善として幅広いTT方式を導入してきた。その実績の積み重ねによって、児童は自分の課題に積極的に取り組み解決使用とするまでに成長してきた。これからは、豊かな表現力が課題となっている。 

(2)沿革
    明治 3年 1月   東沢田に沢田学校所設立、徳川藩士子弟の教養所沼津兵学校付属小学校第一分校と改称。
    明治 5年       学制頒布 敬身舎と称す。別に岡宮光長寺内に一舎を建て、昭学舎と称す。
    明治19年       二舎の称を廃し、金岡尋常小学校と改称。
    明治22年11月   改築なり、西熊堂350の1に移転する。
    明治35年 4月   金岡尋常高等小学校と改称。
    明治35年10月   19日 第二校舎の建築なり、開校記念日とする。
    明治41年       業務教育年限延長とともに、金岡尋常小学校と改称。
    大正 8年 4月   高等科を併設。
    昭和16年 4月   国民学校令により、金岡尋常高等小学校を金岡村国民学校と改称。
    昭和19年 4月   沼津市金岡国民学校と校名変更。
    昭和22年 4月   6・3制実施に伴って沼津市立金岡小学校と校名変更。
    昭和30年 7月   西熊堂板戸に、鉄筋2階建て普通教室5を含む新校舎竣工。
    昭和38年 7月   プール完成。
    昭和43年 5月   体育館兼講堂竣工。
    昭和47年 4月   校区を分け門池小学校を新設。
    昭和48年 3月   小鳥小屋完成。
    昭和47年 7月   小プール完成。
    昭和54年 4月   校区を分け沢田小学校を新設。
    平成 4年 3月   校舎建築工事開始。
    平成 7年11月   新校舎落成記念式典。
  平成16年 3月   新体育館落成記念式典。